2008年08月01日
青白い患者たちの群れ
青白い患者たちの群れ
青白い患者たちの群れが、君の横を通り過ぎていく
だけど君は気づかない、大事なことに気づかない
青白い患者たちの群れが、君の横で立ち止まる
だけど君は気づかない、ビジネスというブサイクな遊びに夢中で
君は気づかない
僕が自殺したいと言ったら、君はどうするだろう
僕が君を殺したいって言ったら、君はどうするだろう
僕が世界を滅ぼしたいって言ったら
僕が世界の奴隷になりたいって言ったら
僕がステージの上で ナイフで自分を切りつけたら
血を流して倒れたら、君はどうするだろう
夏の終わり 僕は草原の中にいた
爽やかな風が 心地よかった
でも巨大な雷雲がすぐにやってきた
辺りは暗くなり 雷鳴が響き渡る
やがて激しい雨が 僕を叩きつける
僕を叩き続ける 薄汚い世界を叩き続ける
卑猥なゲームにみんな夢中だ そして誰も気づかない
薄汚い世界に激しい雨が降ってるのに 誰も気づかない
誰も気づかない 誰も気づかない 誰も気づかない
世界は病気なんだ


青白い患者たちの群れが、君の横を通り過ぎていく
だけど君は気づかない、大事なことに気づかない
青白い患者たちの群れが、君の横で立ち止まる
だけど君は気づかない、ビジネスというブサイクな遊びに夢中で
君は気づかない
僕が自殺したいと言ったら、君はどうするだろう
僕が君を殺したいって言ったら、君はどうするだろう
僕が世界を滅ぼしたいって言ったら
僕が世界の奴隷になりたいって言ったら
僕がステージの上で ナイフで自分を切りつけたら
血を流して倒れたら、君はどうするだろう
夏の終わり 僕は草原の中にいた
爽やかな風が 心地よかった
でも巨大な雷雲がすぐにやってきた
辺りは暗くなり 雷鳴が響き渡る
やがて激しい雨が 僕を叩きつける
僕を叩き続ける 薄汚い世界を叩き続ける
卑猥なゲームにみんな夢中だ そして誰も気づかない
薄汚い世界に激しい雨が降ってるのに 誰も気づかない
誰も気づかない 誰も気づかない 誰も気づかない
世界は病気なんだ

2008年07月30日
この腐敗した世界に堕とされて。

「I am God's child.(私は神の子)
この腐敗した世界に堕とされた
How do I live on such a field?(こんなところでどうやって生きていけばいいの?)
こんなもののために生まれたんじゃない」
鬼束ちひろ「月光」より
ポーニョ、ポーニョポニョ、さかなの子ぉ・・・って、もういい加減やめてくれぇ。頼むからもうやめてくれ、はっきり言ってさかなの子だろうが、通り魔の子だろうが、そんなことはどうでもいい。大事なのはグノーシス主義のようなリベラルな反動に持ち応えることなんだ。この世界が悪であり、創造主すらインチキ(悪)であるならば我々の精神に宿る良心とは一体何なのか。無条件の純粋な愛(PUL)とは一体何なのか?自由とは一体何なのか?犠牲とは一体何なのか?善とは一体何なのか?不埒な気高さを装ったブサイクが悪神が創造したこの宇宙で権力を握り、狂気に満ちた贅沢三昧な遊びに高じている中で僕だけがそれに気づき、抵抗しているのはなぜか?さぁ答えてみるがいい。
反宇宙的二元論がまったくのデッチアゲで”真の善なる世界”や”真の神”がどこにも存在しないのであれば”真の善なる世界”という概念はどこからきたのか?まったくもって不可解だ。本当の神が創造した真に善なる世界を、低次の天使が模倣したのがこの世界だと誰が否定できるのか。我々が崇拝しているこの世界を創造した神(創造主)はじつは本当の神ではない。ところがそれは本当の神とイコールであり、つまるところひとつであることと無限であることは同じだと見なし得るべきであって、そこには何の疑問もない。
ポーニョ、ポーニョポニョさかなの子ぉ・・・
まったく腹が立つ。ヘンに耳に残るところが腹立たしい。頭の中に残っちまう。頼むから誰か止めてくれ、やる気がなくなるんだけど。僕はがんばってるのにやる気がなくなるんだけど。頼むからもうやめてくれ・・・
この銀河系が高度に進化した知的生命体からすでに確認されていて観察目的でこの宙域を希少動物保護区に指定されていると言ったらびっくりするだろうか?動物を環境破壊から守る目的で自然環境を保護している国立公園とか富士サファリパークのようなものだ。じつは我々人類や地球も外部からの脅威にさらされないように保護されている。だからこの宙域は希少動物保護区なのだ。なにも驚く話ではない。
「効かない薬ばかり転がってるけど
ここに声も無いのに
一体何を信じれば?」
不埒な権力者とデタラメな奴隷たち、彼らが織り成すドラマは依然としてブサイクで気味が悪い。そこには進歩という退廃した偽善が依然として存在する。家畜と同じだ、権力者も奴隷たちも。矮小な権力者たちが小さくなって愉快そうに笑っている。だが彼らの卑屈な笑い声すら僕のようなインチキな夢想家には響いてこない。彼らは偽善者であり、効かない薬だ。クソ醜い悪臭だらけの偽善者たちは口を揃えたようにこう言う。「人生は素晴らしい、人生は生きるに値する。夢や憧れを捨ててはいけない。」・・・
だがその言葉の意味をもう一度問い直してみたらいい。そのマヌケな言葉を発して遊びに夢中になっているこの瞬間にも世界では何万もの人たちが飢えて死んでいる。バカげた大義名分の犠牲になって死んでいる。そのことを平気で無視しておきながら何が人生は素晴らしいんだ。すべての人の人生が素晴らしくなって初めて僕たちの人生は素晴らしいものになるんだ。世界中で誰かが飢えて泣いていたら、僕たち人類全体も決して素晴らしくはない。そのことをもう一度よく考えてみるがいい。それともこのままデモリションするのがあんたたちの望みかい?あんたたちはいまでもこの辺りを彷徨っている混乱した亡霊たちと同じだ。ひとりぼっちになって迷路を進んでいくことすらできない。もう、すぐ目の前にすべてがリセットされようとしていることにも気づかず、絶望的なノイズの中で淫蕩な雌ブタと寝ることしか考えない愚者のなんと儚いことか。今夜も気味の悪い夜を過ごすがいい。
腐敗したこの世界に堕とされて、僕は今日も亡霊と戯れる。こんなことのために生まれてきたんじゃない。
鬼束ちひろ[PV]「月光」
崖の上のポニョ Ponyo 大橋のぞみソロ・ヴァージョン
月光
崖の上のポニョ サウンドトラック2008年07月27日
チャプター27 映画批評


2007年アメリカ映画

【評価】65点 (最高100点)
【監督】J.P.シェファー
【製作総指揮】ジャレッド・レト
【脚本】J.P.シェファー
【音楽】アンソニー・マリネリ
【撮影】トム・リッチモンド
【出演】ジャレッド・レト
アンドリュー・ハフィッツ
Rotten Tomatoesによる評価=20点
【解説】
「彼(ジョン・レノン)を知るほど、腹が立った。
ダコタ・ハウスの豪華な住居、ヴァージニア州などに4つの農場を持ち、
高価なホルスタイン牛を250頭も飼っている。
フロリダに大きな別荘とクルーザーを持つ男の言葉、
−想像(イマジン)してごらん、財産のない世界を−」
マーク・チャップマン
八王子でまたしても無差別通り魔事件が起きた。まるで秋葉原の事件を模倣したようなあまりにも短絡的な事件だった。然したる動機もないままに誰でもいいから殺したかったなどというあまりにも身勝手で常軌を逸した行動はこの格差社会が抱える問題点を浮き彫りにしている。だがいくら社会のせいにしたからといってこんなことは絶対に正当化することはできないし、まして加害者をダークヒーローのように祀り上げるなどということはとんでもない間違いだ。これら一連の無差別殺傷事件のルーツとおぼしき事件が昭和13年5月21日に起きた津山事件ではないだろうか。都井睦雄という当時21歳だった青年が深夜に同部落の村民30人を猟銃や日本刀で殺害した事件であり、当時世界でも類を見ない前代未聞の殺戮事件だった。これは後に横溝正史の「八つ墓村」のモデルとなり映画化もされた。
この津山事件や秋葉原事件の背景にあるのはやはりモテナイ男というキーワードだろう。彼らに共通しているのは異性(女性)から拒絶された経験を持っていて、それらのコンプレックスがやがて激しい憎悪に変貌して取り返しのつかない事件を起こしてしまったのだが、今回八王子で起こった通り魔事件は女性に対する憎悪や社会に対する不満などがいまひとつ見えてこない。確かに親や社会に対する憎悪のようなものは語っているのだがそれにしても強烈な動機が見当たらない。
昔いじめられた程度の暗い過去を持っていることは持っているのだがそれでもなお納得できるような動機ではない。はっきり言ってそんなくだらないことである日突然通り魔に変貌してしまうなんてヘンだ。頭がオカシイといえばそうかもしれないがまったくの変質者というわけでもないように見える。これは誰も指摘していないことだが僕にはとても怖ろしいことだ。事件の背景に強烈な動機が見えるのが普通だがこの八王子の事件には然したる動機がない。はっきりした動機もないままにある日突然殺人を犯してしまうというのは気味が悪い。何これ?って感じ。然したる動機がない殺人事件の僕にとってルーツみたいなものがこの「チャプター27」で描かれているジョン・レノン射殺事件だろう。1980年12月8日、元ビートルズのジョン・レノンが自宅であるダコタ・ハウスの前でマーク・チャップマンによって射殺された事件は当時世界中に衝撃を与えた。あの当時様々な情報が錯綜していて、マーク・チャップマンはジョン・レノンの大ファンで、サインを断られたのが原因だとか、あの当時一瞬ではあるが都市伝説みたいなものが囁かれたりもしていた。しかしインターネットがなかった時代故にその後あの事件の情報はほとんど聞くことはなかった。一部の雑誌にほんの少し情報があっただけだった。
マーク・チャップマンはJ・D・サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を愛読していた。というよりも「ライ麦畑でつかまえて」の主人公ホールデン・コーンフィールドになりきっていたのかもしれない。「ライ麦畑でつかまえて」は主人公ホールデン・コーンフィールドが学校を退学させられて、これといった理由もなくニューヨークへ向かい、そこで然したる目的もなく彷徨うように過ごす3日間を描いているのだが、この作品の根底にあるのはアメリカでロスト・ジェネレーションといわれる絶対的な価値観を喪失した時代の憂鬱感だと思う。何か大事なものが消え去った時代、生きるために必要なものがすべて満たされて安定した反面、生きるために求めていた何かがある日突然見えなくなってしまった時代の喪失感や漠然とした不安が社会全体に蔓延していた時代があった。
これはなにも1920年代のアメリカだけに起こったことではなく、現代の日本にも当てはまるのではないかと思う。バブル経済崩壊後日本の企業はそれまでの日本型経営を改め、社員の流動性やコストの削減を重要視してしまった。これによって日本型経営の利点であった終身雇用や年功序列の理念は崩壊し、その次の新たな経営理念として非正規雇用が広く採用されるようになった。しかし人の心は経営者が考えるほど単純で軽々しいものではない。だから将来的展望が見えない第2のロスト・ジェネレーションたちは社会的疎外感や焦燥感、漠然とした不安、何か重要なものが見つからない喪失感、満たされることのない心の隙間を抱えているのだ。
「ライ麦畑でつかまえて」のホールデン・コーンフィールドは社会や学校を”インチキ”なものと考えて、友人や自分以外の人たちを”偽善者(インチキ)”と呼んだ。これは例えばグノーシス主義やプラトンの「イデア論」をモチーフにしているのならとんでもなく進んだ考え方なのだが、「ライ麦畑」のホールデンはそうではなく、思春期特有の反抗的思考から反社会的態度(思考)が強化されたようなものだった。それゆえ極端なニヒリズムに陥っているとは言い難く、物事の在り方や権力をバカにする程度の微笑ましいものだった。
ところがマーク・チャップマンはこのホールデンといつしか同一化してしまって自分の外に存在する世界を”偽善者(インチキ)”と見なし、”偽善者(インチキ)を殺せ”という思想に取りつかれてしまう。おそらく彼にとってインチキの最たる者がジョン・レノンだったのだろう。ジョンは「Love and Peace(愛と平和)」を説いていたにもかかわらず大金持ちで物質的な富を持っていたことにマークは怒りを覚え、”偽善者(インチキ)”と見なし、”偽善者(インチキ)を抹殺する”行為を実行に移したのだ。マークはホールデンが3日間ニューヨークを徘徊したのと同じように3日間ニューヨークのダコタ・ハウスの周辺を徘徊し、ジョンを襲撃した。マークは警察が来るまで近くで腰を下ろし「ライ麦畑でつかまえて」を読んでいたという。殺害の動機は”偽善者(インチキ)”の排除と「ライ麦畑をつかまえて」を広めるための彼なりの布教活動だったらしい。
この映画はすべてマークの視点から描かれているためジョンは殺される瞬間しか登場しない。それゆえに彼の人生を美化し、正当化する要素が多分にあり必ずしもジョンの暗殺を正しい視点から描いているとは言えないが、単なる映画として見た場合これは僕にとってはとても興味深い映画だった。ジョンの映像や思想はメディアに多く取り上げられているので目にするのだが結局彼がどれほどの偉業を成したのか甚だ疑問に思う。彼は「Love and Peace 愛と平和」を訴えてきたわりには自分の資産を慈善団体に寄付したわけでもなく、愛と平和の名のもとに自分は贅沢三昧の生活をして、飢えている子供たちに施すこともなく見殺しにしてきたのは事実だ。マークを擁護するわけではないが偽善者と見てしまうにも一理ある。
「みなさん、金持ちは嫌いですか?」などと言っていたアホタレもいたが、金持ちが悪いわけではなく、その金の稼ぎ方や使い方が問われるわけで、多くを持っている者はそれを独占するのではなく、社会に有用なかたちで還元することが大事ではないのか?持っている者が持っていない者に与えるのは義務といってもよい。ところがこの世界では富を独占して自分だけ贅沢三昧できればそれでいいと思っている。マークのようなやり方は容認できないが偽善者に対する批判的態度は失ってはいけない。
秋葉原や八王子のような事件が起こるたびに誰かがTVで「命の大切さがわかっていない、学校や家庭でちゃんと教えなければダメだ」などと必ず言う。まったく甘いとしか言い様がない。これは事態をまるっきり理解していない証拠で、彼らは命の大切さを十分わかったうえでやっているんだ。命が大切だからこそ、その命を奪うことが彼らにとってビッグイベントになるわけだ。クソ財産を奪うよりも、もっと大切なひとつしかない命だからこそ奪うに値するものなんだ。だから彼らは命を奪う、誰でもいいから殺してやろうと考える、だから彼らはズルイ。それが彼らにとってクソ社会に対するせめてもの反逆であり、自分にできる精一杯の仕返し(嫌がらせ)なんだ。そもそも本当に命の大切さを理解していない知恵遅れはとっくに事故に会うか自殺か何かして死んでるよ、長くは生きられない。
結局社会は最近特に顕著に現れているこれらの犯罪をあれこれ分析してはいるが解決策を示すことはできないだろう。なぜなら競争原理を採用している資本主義を放棄することができないからだ。資本主義に於ける拝金主義を改善することができないからだ。マークが「ライ麦畑でつかまえて」を愛読しているのならば僕(インチキ教祖)はニーチェの「反キリスト(アンチ・キリスト)」を読みながら誰かを××してやる。邪魔するヤツはぶっ殺すぜ!!!
チャプター27Chapter 27 - Trailer
2008年07月21日
ライラの冒険 黄金の羅針盤 映画批評


2007年アメリカ映画

【評価】 60点 (最高100点)
【監督】クリス・ワイツ
【製作】デボラ・フォート、ビル・カラッロ
【脚本】クリス・ワイツ
【原作】フィリップ・プルマン
【音楽】アレクサンドル・デプラ
【出演】ニコール・キッドマン、ダニエル・クレイグ
ダコタ・ブルー・リチャーズ、サム・エリオット
【解説】
イギリスの作家フィリップ・プルマンの冒険ファンタジー3部作の第1巻「黄金の羅針盤」を映像化したファンタジー・アドベンチャー作品。僕は原作も読んでいないし、この映画の予告編も見ていない。ただこの映画が日本で3月に劇場公開されたことや7月にDVDが発売されたことは知っていたのだがどうせ「ハリー・ポッター」や「道路・オブ・ザ・リング」のような子供向けのファンタジー映画だと思っていた。はっきり言って「ハリー・ポッター」や「道路・オブ・ザ・リング」の類似品のようなファンタジーはもううんざりだ。まったく最近はバカの一つ覚えみたいに冒険ファンタジー映画が多すぎる。もうこの手の児童文学書の映画化作品は飽和状態で、何て言うか・・クソが溢れかえってかき出してもかき出してもクソまみれのような状態としか言いようがない。この映画に対して最悪な先入観を持っていたのだがところがギッチョンチョン(?)ところがギッチョンチョンだったのだ。(注−ギッチョンチョンとは意外に良かったことを表す隠語でプラスの感情表現を表している)どおせ「道路」同様に架空の国が訳の分からない不思議な魔法戦争をするだけのバカ映画だと思っていたのだがまったくクソ忌々しいほど想定外の面白い映画だった。なにしろ物語が凄すぎて、その辺がうれしい驚きだったと思う。
自分たちの世界線とは異なったパラレルワールドに存在するもうひとつの現実世界。その平行世界が本作の舞台なのだが明らかに我々の世界とは異なっている。我々の世界線では魂は肉体の内側に宿っているのだがライラたちの世界では自分の魂は肉体の外側に分離していて動物の姿で実体化している。その自分の分身をダイモン(守護精霊)と呼び、子供の頃は心理状態に応じて様々に変化するが思春期の頃から形が固定化してきて、その人の性質を反映した姿になる。この辺が物語りの鍵になってくる。ライラと同じ年頃の少年少女たちが次々と誘拐される事件が発生する。やがてライラの友だちである調理場で下働きしているロジャーという少年も姿を消してしまう。これにはどうやらゴブラーが関わっているらしい。噂によるとゴブラーはジプシャンの子や使用人の子や孤児たちをさらっては北方の地に連れていってしまうらしい。一体何のために?
ライラはオックスフォード大学の学寮長からもらった真理計(黄金の羅針盤)を頼りに北方へと旅立っていった。
この物語にはいくつか謎があってそのひとつに”ダスト”というものがある。ダストとは北の地で発見された素粒子のこと。「人はチリから出て、チリに帰る」という聖書の言葉から引用されたもので宇宙に存在する無数のパラレルワールドを結びつけていると考えられている。そして教権(マジステリアム)という教会組織が強大な権力を持ち、この世界を支配していた。このマジステリアムは人類の祖先がオーソリティーに反逆して過ちを犯したと考えている。それゆえダストが地上に舞い降りてきて人間の精神を汚染していると考えている。だからダストを科学的に研究することは神を冒涜する行為とみなし、反逆者を異端とみなし迫害していた。この映画、アメリカで公開されたとき”無神論を子供に植え付ける”という理由で複数の宗教団体から激しく非難され、ボイコット騒動も起こったらしい。原作はグノーシス主義に影響されているらしく、それゆえ各方面から非難されたらしいがこの映画を見る限りグノーシス主義など微塵も感じない。最近「ダヴィンチ・コード」の騒動から映画会社も宗教的解釈を作品に反映させない傾向が感じられる。この作品もおそらく原作が宗教団体から非難されていることを反映して宗教色を薄め、娯楽要素のみを前面に押し出した内容になっている。この映画を見て子供が無心論者になるなんてバカげているし、クマどおしの戦いに熱狂するだけだと思う。
だが”切り離し”という行為が物語の重要な要素であり、あの場面をカットすることはできないとすればマジステリアムの考え方は恐ろしいほどグノーシス的であり、今回謎が解明されなかった”ダスト”が続編でどのような解釈で描かれるのかを考慮すれば、確かにこの作品は大人から見れば反宇宙的二元論のグノーシス主義をベースにしていると解釈してもおかしくない。じつは我々の世界は悪の世界であり、その悪の世界が崇拝している神もじつは善ではなく悪であるというのは非常に退廃的な考えだが、この悲惨な世界を直視すれば善が優勢しているとはとても考えられない。
この物語を書いた人は天才じゃないかと思う。いやはや本当にすごい物語だ。続編の「神秘の短剣」と「琥珀の望遠鏡」の完成をこれほど待ち望むようになるとは思わなかった。
ライラの冒険 黄金の羅針盤(2枚組)「ライラの冒険 黄金の羅針盤」 予告編







